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小山市初の防災集団移転!安心安全な未来へ今は未来、2054年10月。
小山市押切(寒川地区)の住民28軒が集団移転を敢行してから、26年がたった。かつて永野川・巴波(ウズマ)川・杣井木(ソマイギ)川の3本の川に挟まれて水害に怯える日常を送っていた人たちは、いかにして今の安心で安全な生活を手に入れたのか。―――今回は、集団移転を進めるにあたって当時「押切杣井木川被災者の会」を立ち上げ活動していた杉本勝彦さん(86)の証言を軸に、押切住民の軌跡を振り返ろう。
3択から決断した防災集団移転ーー“当たり前の生活”への第一歩
初めて取材班が杉本さんにお会いしたのは、今から30年前(令和6年)、私たちがまだ白鴎大学地域メディア実践ゼミの学生だった頃。その時点では、集団移転はまだ実行されておらず、押切地区の人たちは大雨のたびに不安な思いで空を見上げていた。
その少し前―――平成27年9月関東・東北豪雨と、令和元年10月の台風19号が小山市を相次いで襲った時には、私たちの母校白鴎大学(大行寺キャンパス)でも校舎が浸水したが、押切の一部地域ではもっと酷い被害に見舞われた。
「平成27年の時も令和元年の時も、1階は(水びたしで)全部リフォームし直し。本当に、同じ小山市だと思えないでしょうね」
マイカーが水没して廃車になったり、電化製品も使えなくなったり、水は丸1日で引いても完全復旧までには1年以上かかったり……そんな災難を、オリンピックと同じ4年に1度のペースで2度も経験させられた。
だが、それも今や昔話。2030年代・40年代にも異常気象によって小山市は度々豪雨に見舞われ思川が越水した時もあったが、移転後の杉本さんたちの家は安泰だ。
その転換の第1歩は、小山市役所が台風19号水害の翌年に対策として提案してきた、《輪中堤》(低地の区域を取り囲む堤防)を造る公共事業の構想だった。これに対し、2度目の被災後から集団移転だけを考えていた杉本さんは、住民側の意見書を作成するため1人で地域の1軒1軒を訪ね歩いて、自分達の世代だけでなく子や孫について考えてほしいと住民の説得に回ったと振り返る。
「本当にもう、何回も何回も家に行った。回数で言うと分からないぐらい。おじいちゃんやおばあちゃんにわかりやすく説明するっていうのは、すごい時間がかかりました。」
翌令和3年、杉本さん達が立ち上げた「押切杣井木川被災者の会」は、小山市建設水道部治水対策課から改めて提示された《輪中堤/家の嵩上げ/集団移転》の3案を軸に検討を進めた。そしてついに、今後の災害も見越した上で治水対策課と共に防災集団移転を進めるという結論に達し、総意書を小山市長に提出した。
その後、移転場所の選定、引っ越しや移転先に新居を建てる費用の自己負担など、数々の問題で市側と勉強会などを重ね、事業計画の提出に漕ぎ着けたのが2025年。それから約3年で宅地造成や用地契約を経て、予定通り押切地域内58軒のうち実際に水害にあった28軒の移転が成し遂げられた。内11軒はそれぞれの家族・親戚の家やその近所に引っ越し、17軒は東へ約11km離れた小山市塚崎(大谷南地区)への集団移転となった。
「台風が来る1~2日前に車をロブレの立体駐車場に入れて、過ぎるのを待つしかない」「梅雨の時期は必要最低限の物だけ下に置いて、あとの物は2階に上げる」という不便と心配を抱えた生活から解放され、ついに念願の“当たり前の生活”がスタートした。
ミニ運動会、絆マルシェ、農業体験会、…交流・再生の努力は続く
塚崎に移転した人たちの有志がまず積極的に取り掛かったのは、旧来の塚崎住民との交流だった。1軒ずつバラバラの所から来る普通の転入とは違い、今回は元々の土地で知り合いだった者同士が同時に移転して来たので、そのまま旧押切住民だけで固まってしまい、塚崎の近隣住民に溶け込みにくいことを心配したのだ。そこで、かつて杉本さんが押切で意見書集約のために歩き回った時のように、なるべく塚崎の人たちに話を聞き、交流できる機会を持とうと意識した。
そんな中で、「みんなでかけっこしたい」という小学生の声と出会って始まったのが、同地区にある小山市立体育館でのミニ運動会。最初は旧来の塚崎住民の人の顔はわずかだったが、少しずつ参加者は増えていき、2054年の今回は総勢60名の老若男女がくじ引きで紅白に分かれて楽しく交流した。
さらに2033年には、集団転入5周年を記念して第1回の「絆マルシェ塚崎」が開催された。同じ大谷地区で長年続く「ママ’s マルシェ」(未来記事はこちら→ https://oyamavision.com/column_report/567/ )のアドバイスを得て、今では毎年200人ほどが参加する規模になっている。
また、住まいは塚崎に移転したものの自身が所有する田んぼを押切に残していた杉本さんは、その活用方法について「若い人が外から農業をしに来てくれれば1番助かる」と考えていた。そこで2040年、塚崎と同じ大谷地区(南部)の中にオープンした《農村ヴィレッジ》(未来記事はこちら→ https://oyamavision.com/column_report/667/ )に早速足を運び、園長にアドバイスをもらって田植えや収穫の体験会イベントを押切で開催。初めは杉本さんの所有する土地だけで行われていたが、集団移転と高齢化という二重の理由で管理が困難になった周囲の田畑にも、次第に再利用法として広まっていった。体験会イベントの参加人数は徐々に増え、その若者たちの中から農業の後継者まで生まれ始めた。 ここで収穫された米は、私たちが杉本さんを30年前に取材した縁をきっかけに、今や白鴎祭の地域出店ブースで毎年販売され、好評だ。
移った人も留まった人も…水害経験生かし、共に未来へ語り継ぐ
そして今、もう一つ旧押切住民の有志たちが力を入れていることがある。それは、「小山市でも大きな水害があった」ことを伝えるための、寒川地区防災支援・伝承活動だ。30年前の初取材の時、「自然災害の怖さを知っている者として、その事を未来に伝えながら塚崎で生活していきたい」と語っていた杉本さんたちは、市内の小中学校を中心に巡回を開始。豪雨と台風の被害から安心安全に暮らすことについて、ハザードマップや水害の写真を用いながら、意見交換をし合うワークショップを開催している。
このワークショップを一緒に立ち上げたのが、同じ寒川地区の中里で(30年前の初取材当時)自治会長だった松本文夫さん(現在104歳)たち。あの平成27年と令和元年の水害で同じく一部が被災した中里の住民達は、防災対策として自己負担がない《輪中堤》を選んだ。移転した者と残った者―――採った道は違っても、同じ水害体験者としてタッグを組んだのだ。2054年の今も、寒川地区の繋がりは強い。
この水害対策ワークショップは、具体的な成果も生んでいる。実は初取材当時、輪中堤で守られるとは言え同じ場所に住み続けるという選択に多少の不安もあった中里地域の人たちは、《豪雨の音で避難指示のサイレンが聞こえない》対策として「寒川地区全体から見えるような回転灯と拡声器をつけたポールを建てる要望書を出そうとしている」と構想していた。そんな中、このワークショップで小中学生たちから「各家の中にミニサイズの回転灯を取りつけて、避難指示が家にいても分かるようにする」というアイデアが出され、市に提案したのだ。2030年には、輪中堤と共にこのポールも家庭内ミニ回転灯も実現し、安心の材料となっている。
塚崎に移転した17軒は26年経った今でも、押切の様子が気になってたまに見に行くそうだ。住む場所が変わっても、地元に対する思いは変わっていない。 初めてお会いした時、水害に怯える必要のない「当たり前の生活がしたい」と何度も口にしていた杉本さんたち。今やすっかり塚崎にも溶け込み、押切では農業のおもしろさを、そして全市で防災の大切さを次の世代に伝えながら、“当たり前以上”の生活を送っている。
白鴎大学地域メディア実践ゼミ(諏訪千咲、室岡巧輝、栗島伶児、清水隆壱)
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