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未来につなぎたい大切なものは? 〜それぞれの視点で持ち寄る広場〜 未来につなぎたい大切なものは? 〜それぞれの視点で持ち寄る広場〜

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劇団、教室、バスケにマルシェ。
あの手この手で発光するまち

今は未来、2054年5月。

小山市大谷北部・中部地区は、子育て世代に大人気のエリアだ。それを実現して来たのは、住民たちの様々な活動。今回はそのキーパーソンの中から、荒川留美さんと大内晃子さんをご紹介しよう。

初めて取材班が子育て奮闘中のお二人にお会いしたのは、今から32年前(令和4年)、私達がまだ白鴎大学メディア実践演習ゼミの学生だった頃。その時点で既にお二人は地区内外で多彩なアクションを立ち上げていたが、それが今や目を見張るほどに展開している。ここまでの道筋を、振り返っていこう!

母娘が架けた虹が、一人一人を輝かせて

荒川さん(右端)と、娘の芽萌里さん(左端)。劇団NIJI-IROの稽古場で。

「虹のようにメンバーそれぞれの色(個性)が輝く集団にしたい!」という荒川さんと娘の芽萌里(めもり)さんの思いから名付けられた「こども劇団NIJI-IRO」は、平成31年の旗揚げで、もう創設35年目を迎えた。

私たちが初めて取材に訪れたのは、創設5年目のレッスン日。その時開かれていたのは、特別講師の方による漫才講座だった。え、劇団なのに…お笑いも? そう、「いろんな角度から表現力や思考力を身につけてほしい」という荒川さんの思いから、漫才に限らずアクションの指導・生花・山登りなどもレッスンに取り入れていたのだ。

へぇ、面白いなぁ…と見学していた私たちは、荒川さんにネタの台本をスッと渡された。「体験で…やっちゃってみます?」「あはは…えっ!」「ここ、無茶ぶり劇団なので!」───まさかこうなるとは。人前でただ話すことでさえできれば避けたい私たちは、流れるようにペアを組まされて、お笑いを初体験する事態に!(劇団のみんなが堂々と漫才をする中、羞恥心を捨てきれない私たちの掛け合いで、部屋は一気に悪夢のように冷え切った…。)

人生最初で最後の漫才を披露する私たち。
撮影者の笑い声しか聞こえないあの寒さは、32年経った今でも忘れない。

令和4〜5年の取材当時、劇団長だった“だんちょ〜”こと芽萌里さんは、「今後、日本一の有名劇団にして、学校作っちゃったりして!」と大きな夢を私たちに語っていた。そして2037年、入団希望者が増えたNIJI-IROはこれまでの地区外の稽古場では手狭になり、大谷地区内の空き家を譲り受けて、あの時の“だんちょ〜”の夢通り「NIJI-IRO学園」を創設した。ここでは今も、劇団の卒業生たちが後輩へ、演劇やダンスなど幅広い分野をそれぞれ教えている。

音楽のレッスン前に体をほぐす劇団員たち。
この光景は、撮影当時(令和5年)も今も全く変わらない。

卒業生の中には小山市を飛び出し、プロフェッショナルに活動中の人も少なくない。昨年には、歌手、作曲家、脚本家、声優、漫才師…など多彩な分野に散らばった元NIJI-IRO団員らが集まり、大谷地区で青春をおくった芽萌里さんの半生を描いたノンフィクション劇映画「メモリー」が公開された。主演もつとめた脚本家“だんちょ〜”の自伝的作品は静かな人気を呼び、聖地巡礼をするファンも現れて、今や大谷北部・中部地区はちょっとした観光名所にまでなっている。飛び抜けた景色や名物がなくたって、そこに暮らす[人]が光る場を作れば、その地域は輝きを発するんだな。

芽萌里さんが令和5年に執筆・販売していたファンタジー童話シリーズ。現在の活動のルーツだ。

学習サークルから国際交流まで

もう1人。同じくこの大谷北部・中部地区に住み、多岐にわたって様々な活動をしてきた大内晃子さん。
その一つである「地域親子学習サークル20’s」が平成30年に誕生したきっかけには、子育て中の大内さんの「習い事の選択肢が少ないな。保護者として、何か習わせたい。0円で学べるものがないかな。」という思いがあったそうだ。
“親子で学ぶ”をモットーに「子供教室」と名付けた授業では、大内さんがイベントで出会って協力をお願いした先生方から、百人一首やお金に関してなど「その時々で必要だと感じたこと」を学んでいる。
今では市役所とも協力し、新人パパ・ママの交流の場としても活用されたり、移住者の不安解消にも一役買っている。

コロナ中もオンラインで続けた「子供教室」。これがやがて「ファミリー教室」に…。

異文化交流にも力を入れてきた大内さんたちは、小山市近辺に住むナイジェリア人留学生らの憩いの機会として、地元郷土料理の“しもつかれ”作りやバスケットボール交流なども 次々に企画。そこに集まって来るナイジェリア人の若者たちの中には、私たちの母校・白鴎 大学バスケ部員達もいた。そのうちの 1 人オコンクウォ・スーザン・アマカさんは、令和 4 年の全日本新人戦で最優秀選手賞を獲得、同年の全日本大学選手権での白鴎大学女子準優 勝にも大いに貢献するなど大活躍。4 年生の時(2024 年)には、白鴎大をついに 8 年ぶりの 女子バスケ日本一へと導いた。これに刺激された留学生達の勢いは止まることなく後輩へ と受け継がれ、いつしかナイジェリアの子ども達は《日本に留学→小山で暮らす→白鴎大バ スケ部→母国代表でオリンピック出場》というコースを夢見るようになった。

この⻑年にわたる交流の末、小山市は現在開会中の 2054 年度市議会で、ナイジェリアの主 要都市と「スポーツ友好姉妹都市」を結ぶ新計画を協議中だ。大内さんの住む大谷北部・中 部地区も当然、姉妹都市交流活動の重点ゾーンに手を挙げ、今まさにあれこれとプランを練 っている。きっかけを拓いたアマカさんは特別友好大使に選ばれ、今は祖国との架け橋になろうと尽力している。

そして私達が取材で初めてお会いしてから4ヶ月後の令和5年4月には、大内さんは小山市議会議員選挙にチャレンジして初当選! 小山市内の小中高校や「学習サークル20’s」「NIJI-IRO学園」などを巡回訪問する特別授業をスタートし、政治や選挙についてのやさしい解説から料理指導まで、その幅広いメニューが人気を呼んだ。

そんな活躍ぶりを見て、地元の議員という仕事に興味を持つ女性もジワジワと増え、大内さんが初当選した時にはたった6名だった小山市議会の女性議員は、2054年の今や過半数を占めるのが当たり前になった。

参加者から出品者へ、マルシェの自律回転

「ママ’sマルシェ」第14回当時は、こうしたレンタルスペースで開催されていた。

このように、大谷北部・中部地区でずっと多彩な取り組みを続けて来た荒川さんと大内さん。このお2人がずっと一緒に関わっているのが、今年で第45回となる「ママ’sマルシェ」だ。
この前身のガレージセールは、荒川さん宅や大内さん宅の持ち回りで小ぢんまりと始まった。しかし年月を経て着実に人気を伸ばし、現在では「プレイパーク109」(初取材当時まだ大谷北部・中部地区で“お試し活用事業”募集中という段階だった、市の運営する公共空間)の目玉イベントにまでなっている。
プレイパークに足を踏み入れると、そこには沢山の人、人、人!私達が初めて参加した第14回では1日全部の来場者が100人前後だったが、今や会場にはこの瞬間だけでおおよそ100人ほどの来場者が見渡せる。

2054年の今と同様、可愛いグッズに当時も取材班の財布の紐は緩んだ。

出品されているグッズを覗いてみると、令和5年当時と変わらず可愛い通園グッズ、クリップで取り外しのできる移動ポケットや傘の目印となるゴムバンドなどの便利グッズ、精巧なおもちゃもある。出品者は50名ほどで、たくさんの色鮮やかな品々が並ぶ姿は圧巻だ。プレイパークでの参加者の中には、私たちが初取材した際にママ’sマルシェで買ったグッズを愛用していた、という方もいた。「あの頃マルシェで買った精巧な布製のおままごとセットが私の宝物になって、そこからものづくりに目覚めたんですよ。」その方は今、小山市の名産である結城紬を使った布人形を制作・出品している。そうやって、過去の参加者が今の出品者となり、今の参加者が未来の出品者となって、ママ’sマルシェに関わり続けているのだ。

あのコロナ禍まで、活動の材料に。アマビエをモチーフに「地域親子学習サークル20’s」が作ったカカシは、当時「大平かかしの里」コンテストでグランプリをとった!

―――荒川留美さんと、大内晃子さん。地域の人たちとタッグを組んだお2人の活動は、2054年の今も拡大を続け、新たなキーパーソンも続々誕生している。こうして大谷北部・中部地区は、子育て世代に人気のエリアとなったのだ。経済活性化も出生率上昇も実現したこの地区の、更なる発展に目が離せない。
〔白鴎大学地域メディア実践ゼミ(2023年当時)/松島翠・佐藤麗奈・岩崎朱里・三浦藍香〕

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