02

コラム&レポート コラム&レポート
未来につなぎたい大切なものは? 〜それぞれの視点で持ち寄る広場〜 未来につなぎたい大切なものは? 〜それぞれの視点で持ち寄る広場〜

17

新しい賑わいと、守られる住みやすさと

今は未来、2054年7月。
小山市間々田地区の「乙女河岸跡」は、多くの人が訪れる観光スポットだ。ここは、平成9年に公開されたアメリカの大ヒット映画「タイタニック」の間々田版である「思い川」のロケ地として使用され、大きな反響を生み聖地巡礼の場になった。それをきっかけに、「車屋美術館」や「乙女屋」も観光客に人気を呼び、一方「じゃがまいた」や「かかりつけ医ロード」が住民たちに支持されて、《賑わい》と《住みやすさ》が両方確保された地域になっている。 ここに至るまでの間々田地区のまちづくりを振り返っていこう!

観光スポット①乙女河岸跡


間々田地区を流れている思川はかつて舟運が有名で、乙女河岸はその拠点だった。徳川家康が重大な方向転換を決めた小山評定の時、この乙女河岸から舟に乗って江戸へ戻ったことから、縁起の良い河岸として価値を認められ、江戸幕府の保護を受ける御用川や御用河岸とも呼ばれるようになった。家康を祀る日光東照宮を建立する時も、江戸の方から舟で運んで来る資材や材料は、「縁起の良い乙女河岸」から必ず陸揚げして日光まで運ばれたといわれている。

そんな舟運で栄えていた乙女河岸だったが、鉄道が敷かれたことによりだんだんと衰退していき、大正あたりにはすっかり姿を消してしまったという。思川は水量が減り浅くなってしまったため、再び舟を浮かばせることは困難であった。

舟も多く乙女河岸 はこんなに栄えていた

間々田5丁目自治会長だった渡邉一郎さん(102)は、令和6年に初めてお会いしたときには「途絶えたものを復活するというのは非常に難しい」と悩んでいた。しかし、せっかくの「思」川と「乙女」河岸という綺麗な名前を、何か地域の起爆材として利用できないか…?みんなで考えて、2030年に発案されたのが「間々田地区聖地化計画」。未来のエンタメ業界を担うクリエイターたちを対象に、この地名をうまくストーリーに活用した映画制作を呼びかけた。

その応募作の中から市民の投票で選ばれた大賞が、「思い川」。若い船頭の男が、川で溺れかけている恋人を助けたが、自分は助からなかった。その男を河岸で生涯”思い”続けた“乙女”は、彼からのプレゼントで助けられた時にも身につけていた簪(かんざし)を年老いてから川に投げ、夢で男と結ばれる。こうして人々は「思川」「乙女河岸」と呼ぶようになったーーーという物語。史実にはない創作だが、ロマンチックな地名の由来話が話題を呼んでクラウドファンディング(ネット募金)で資金が集まり、映画は大ヒット! 乙女河岸跡には、「思い川」の名シーンの体験ができるなどの新たな観光スポットが誕生した。公開から20年以上経った2054年の今でも、恋人の聖地として休日にはたくさんの人が訪れている。

聖地巡礼の場所のひとつ。カップルで写真を撮ると愛が実るかも…!

観光スポット②車屋美術館


そんな「思い川」の聖地巡礼コースのひとつが、「車屋美術館」だ。築140年以上の古さからそのまま映画の中でもロケに使用され、主屋の純和風な外観からは想像できない2階の洋室の存在などが注目を浴びている。

舟運の時代に乙女河岸で肥料問屋を営む豪商だった小川家の住宅を、舟運の衰退後に日光街道沿いの現在の地に移築。今から45年前の平成21年に、旧米蔵や肥料蔵を展示室に改装して、美術館としてオープンした。観光客だけでなく、市内の小学生も地域学習の一貫で訪れ、間々田地区についての学びを深めている。

こんな古風な日本家屋の中に洋室が!

観光スポット③「乙女屋」


もう一か所、聖地巡礼のファンが立ち寄る和洋菓子店の「乙女屋」は、なんと大正元年に創業され、2054年の今も当時と同じ場所で約140年の歴史と共に歩み続けている。
家族経営の4代目は、渡辺利之さん(83)。最初は饅頭屋から始まり、2代目まで和菓子を専門に売っていたが、3代目から”洋”も取り入れて時代の変化に対応させ、4代目の渡辺さんもそれを継承している。30年前の令和6年に訪問した時と同様、今も年齢層の高い方やファミリー層など幅広い年代に愛されている。

見覚えのあるお菓子を発見した学生記者

現在、最も人気があるのは「るかんた〜と」。平成4年に発売された乙女屋のロングセラー商品である「るかんた」(フランス語の冠詞の”ル”に「いつまでも心に留めて」という思いを込めた当て字の”留”と、“乾”燥して“太”いかんぴょうとを組み合わせた“留乾太”が語源)と並ぶ、栃木県特産のかんぴょうを用いた新感覚ジェラートだ。

「るかんた〜と」が注目されたのは約5年前のこと。間々田地区出身で知名度の高い人気のインフルエンサーが、SNSで「るかんた〜と」を食べ絶賛する投稿をして以来、ファンが増えた。それでも、令和6年取材当時に「このままやっていけるのが1番良いのかな。」と語っていた渡辺さんの夢は今現実となり、30年前のゆったりとしたアットホームな雰囲気は守られている。

住みやすさ①・じゃがまいた


こうして観光客で賑わうようになった間々田だが、それでも昔と変わらず守り続けていることがある。それは、”住みやすさ”だ。

令和6年の取材当時、ここで生活している方々に将来どんな街になって欲しいか聞いたところ、みんな口を揃えて「あまり変わらないで欲しい」と話していたのが印象的だった。

そんな“変わらないで欲しい”もののシンボルが、400年以上続く”じゃがまいた”祭り。田植え時期前に五穀豊穣や疫病退散を祈願するもので、当時の皆の願い通り、また今年もたくさんの人が集まって行われた。映画「思い川」にもこの祭りのシーンが出てきたことから、近年は見に来るお客さんも増えた。

祭りの主役は今でも子ども達で、長さ15mを超える大きな蛇を担ぎながら町中を練り歩く。私たちが30年前取材したとき、博物館の人が「スカした高校生も手伝いに来てくれるのよ〜」と嬉しそうに話していたが、その時の高校生が今では自分の子どもを連れて、“スカした親”として毎年熱心に参加しているそう。こうやって、地域みんなで次へ次へと継承していき、今日も伝統を守っているのだ。

令和6年当時。現在と同様「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」の掛け声で担ぐ

住みやすさ②・間々田かかりつけ医ロード


そんな祭りの健在ぶりとは対照的に、衰退してしまったのが間々田商店街。宿場町として栄えた名残で、昭和の中頃までは40~50店舗で活気があったが、令和6年には既にほとんどの店が閉まっていた。

そんなシャッター通りを新時代に合った形で蘇らせたいという夢を持っていたのが、元自治会長の渡邊さんだ。「ちょっと体調が悪いときに相談できる医療機関が、高齢者世代だから必要だよね。住宅地も広がってるから、医者のモール街があったらいいな〜」と、当時語っていた。

その後、この話を自治体仲間にすると「最近は対面なしのAI診療ばかり進んでるから、直接人間のお医者さんに診てもらえるのはいいね」と賛同の声が!

それから何度か話し合いが設けられ、2020年代の後半には、小さな医院が旧商店街の道沿いにズラッと並ぶ”間々田かかりつけ医ロード”提案書を小山市に提出した。

何でもAIリモート化が進む時代の中で、あえての新しい試みだと評価され、市と県も協力!

直ぐに、もともとあったお店の建物を活かしながら低予算でのリノベーション工事が始まった。

そして2034年、ついに‘‘間々田かかりつけ医ロード‘‘はスタートした。歯医者や整形外科、眼科、外科、内科などの診療科が並び、さらにその後も様々な科が着々と新規開業している。

はじめは県内の大学病院の協力の下、ドクターは日替わりで域外から通勤診療していたが、「居心地の良い間々田に住んで働き続けたい」という先生がすぐに増えていった。

住民からは「ご近所だから気軽に相談できるし、面倒見の良い先生ばかり」「昔みたいに、画面でなく生身のお医者さんと話せるのが嬉しい」と、始まって20年経った今も大好評!名前の通り、みんなのかかりつけとなっている。

それゆえ顔見知りが多く、毎日たくさんの挨拶が行き交う。親の付き添いで来た子ども達の面倒を、待合室で近所のおじいさんが見ていたり……地域関係の希薄化がますます深刻化している2050年代の今にあって、ここでは逆の現象が起こっているのだ。

 以前は<商売>で住民の生活を支えていた間々田商店街エリアは、今やこうして<医療>で住民の生活を支え、さらには人との繋がりを深める役割も担っている。

こうして、「あまり変わらないで欲しい」と皆が望んでいた昔ながらの”住みやすさ”が、2054年の今もしっかり残る間々田地区。あれから30年、住民の方に再び同じ質問をしてみると…「やっぱり変わらないでほしいね!」

きっとこれからも、間々田は変わっていくけど変わらないのだ。

白鴎大学地域メディア実践ゼミ(竹居あいみ 若菜恵実 鈴木菜仁 森愛果)

—————————

>>「未来発!おやまノート」の記事一覧ページへ