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途切れた絹糸を、もう一度つむぎ直して今は未来、2054年4月。
小山市絹地区では、結城紬(ゆうきつむぎ)が全国的に有名になったおかげで、一度は衰退した養蚕も復活し、地産地消の結城紬生産地となっている。
この地区のレジェンドであり、今回の話のキーパーソンである元・養蚕農家の野澤正義さん(113歳=日本最高齢に挑戦中)と伝統工芸士の坂入則明さん(98歳)をご紹介しよう。
取材班が初めてお二人にお会いしたのは、今から30年前(令和6年)、私たちがまだ白鴎大学地域メディア実践ゼミの学生だった頃。当時は絹地区で養蚕業を営んでいる人がもう全くおらず、また結城紬も後継者不足で伸び悩んでいた。そこからの大逆転で、真岡市や結城市などの地域を巻き込んで養蚕や結城紬を復興させるきっかけを作ったお二人を中心に、ここまでの道筋を振り返っていこう!
「ふるさと学習」は続けても——ついに養蚕農家ゼロに
絹の需要もまだ高かった昭和30年代頃までは、養蚕業は元気だった。重労働ではあったが、それに見合った収入を得ることができ、養蚕で一儲けしようと多くの人が絹地区に集まった。しかしその後、外国産の絹糸の需要が高まると、養蚕農家は経済的に追い込まれ、絹地区では一人もいなくなってしまった。
養蚕によって支えられてきた絹地区。その最後の担い手だった野澤さんに、今から44年ほど前の平成22年頃、小山市立福良小学校の校長先生が相談を持ちかけた。「絹地区で養蚕を子供たちに教えたいんだけど、誰か教えてくれる人はいないかな?」―――養蚕の授業を、農業理解と地域貢献につなげたい! そう思った野澤さんは、養蚕や結城紬について学ぶ「ふるさと学習」をスタートさせた。
その後、福良小学校が閉じて、新たに1年生(小1)〜9年生(中3)までが1校で学ぶ小山市立絹義務教育学校が開校してからも「ふるさと学習」は続いている。
私たちが取材した令和6年当時も、真剣な眼差しで学ぶ子どもたちの姿に、養蚕を教えることへのやりがいを感じていた野澤さん。しかし、伝統産業を未来へつなぐ「難しさ」にも直面していた。実はその頃、野澤さん自身がついに養蚕を経済的な理由でやめた直後だったのだ。この伝統は、「現実的にはお金にならないと続かないと思う」―――野澤さんは、当時寂しそうにそう語っていた。
どんな凄い技術でも——結城紬も残らぬ危機感
この養蚕から生まれる絹織物の結城紬は、小山市や茨城県結城市周辺で生産されていた。全て手作業で、そのうち「糸つむぎ」「絣(かすり)くくり」「地機織り」の3工程は昭和31年に国の重要無形文化財に指定され、平成22年にはユネスコ無形文化遺産に登録されるほど貴重な技術だった。
結城紬は基本分業だが、機織りが家業の坂入則明さんは「自分でも染めてみたい」と思うようになり、結城市の親方の下で7年半修行。家業の機織りを続けつつ、30歳(昭和61年)で“織り”と“染め”の二刀流を武器に独立した。
令和6年の取材時、実際に絣くくりのサンプルを見せていただき「わぁ〜すごいっ!」と驚きの声を上げてしまった私たち。細部まで染まっていて、これぞ日本が誇る技術だ。(詳しくは、次回掲載の「取材後記」をお楽しみに!)
これほどの技術が残っているにもかかわらず、結城紬は生活様式の変化から急激に低迷し、技術者の高齢化や後継者不足で、後世に残すことが危うくなっていた。
その危機感から、小山市でも「紬織士(つむぎおりし)」という職種を平成26年度からつくり、坂入さんはその紬織士の教育も担当していたが、「独り立ちできなければ意味がない。将来、本格的に後継者を残そうと思うなら、教えた紬織士たちが自分たちの工房みたいなものを専門的にやる場所を作ってあげなくちゃ可哀想だ」と悩んでいた。
―――着るのに時間がかかる。高価で若者が手に取りにくい。結城紬は、問題解決の出口が見つけられずにいた。
「つむサー」が、100年前の足利の知恵と出会って
そんな養蚕と結城紬のダブル危機に、2030年代の初め、絹義務教育学校出身の白鴎大学生たちが動き出した。子ども時代に野澤さんに指導を受け、坂入さんの技術に魅せられていた彼らは、学外の仲間達も集めて結城紬サークルを立ち上げ、「つむサー」という略称で白鴎祭に参加。地元の店や団体などが出店する「地域市」コーナーで、結城紬の雑貨づくりワークショップや、着付け体験、結城紬ワンコインレンタルサービスなどを実施し、好評を博した。来場者からは「着物はもっと重いものだと思っていた」、「着物って結構暖かい!」、「もっと簡単に着られたらいいのにな…」と、様々な声が寄せられた。
その声をもとに、「つむサー」はレンタルや雑貨の販売などで得た資金や賛同者の出資金を用いて、ワンタッチで簡単に着られる結城紬の着物の開発に着手。小山市役所や専門家の皆さんの協力も得て、ついに2040年までに製品化に成功した。
次はそれを、どうやって広めるか。「つむサー」が参考にしたのは、そこからちょうど100年前の昭和14年頃、足利で生産された絹を素材とした「足利銘仙」が不評から一転して生産高日本一になった時の作戦だった。『あしかが文化三十周年記念誌』(平成17年発行)などによると、美人画で有名な伊東深水に描いてもらったポスターの大量配布や、人気歌手の勝太郎らを口説き落として歌ってもらったレコード、さらには歌舞伎興行への進出等々、当時としては珍しい大宣伝をしたという。「つむサー」のメンバーはその資料などを集めて研究し、卒業論文にした。その卒論をもとに、街中の建物に“動くポスター”としてプロジェクションマッピングを全国展開。天才子役・真綿つむぎちゃんによる「つむぎ体操第一!」の動画もバズらせた。さらには日本のトップモデルがパリコレで着用したことなどで、国内外から注目が集中。“ワンタッチ”という便利さがウケて「普段着として着たい」という人が急増し、まさに足利銘仙の作戦成功の100年後に、結城紬人気が再来したのだ!
更に、「つむサー」は思わぬ効果も生んだ。このサークルで紬の良さに触れた学生たちが、卒業後「この活動をもっと多くの人に広めたい」とそれぞれの地元や就職先に散った後もワークショップなどを開催。白鷗大学を起点に始まった輪が栃木県を飛び出し、国内各地へ今もなお広がり続けている。
さらに拡がる輪——真岡からも、強力な同志が
こうして、絹地区の野澤さん・坂入さんから「つむサー」へと展開が広がっていた頃、同時進行で周辺地域でも活発に動く人がいた。私たちが初取材した令和6年当時から真岡市で養蚕農家をしていた、飯村昌さん(当時31歳)。蚕をこよなく愛する飯村さんは、蚕の飼育の他にも桑の葉を使ったほうじ茶や化粧水、雑貨石鹸なども作っていた。「栃木県はすごく魅力的なところだからここでやり続けたい」という当時の言葉通り、61歳になった2054年の今も、真岡市を拠点にワークショップや飼育体験などに積極的に取り組み、養蚕界の先導者として発展に貢献している。
講演会などで養蚕を教えることにも意欲的で、真岡市から飛び出して栃木県内を駆け回っている。私たちの当時の取材がきっかけで、絹義務教育学校の「ふるさと学習」とも協力関係が生まれた。
「商品として形になることは色々やりたい」と初取材時から語っていた飯村さんは、今では絹地区の人たちともゆるやかに連携。シルクが人間の皮膚のタンパク質構造に近いことを利用して、全齢桑育(人工飼料を使わない蚕の飼育方法)の繭のみを使用した化粧水や化粧品、ヘアマスクの販売などにも力を入れている。ご家族の病気をきっかけに天然素材を使うことを大切にしており、その姿勢が評価されて美容系Youtuberにも多く取り上げられ、シルク本来の美容効能を再認識した「silky and silky(シルキーアンドシルキー)」というブランドも小山市に誕生した。
さらに、期間限定の「蚕カフェby silky and silky 」も話題になっている。かわいい蚕を眺めながら桑のほうじ茶や、蚕のフンからできたお茶(神経痛や関節痛、胃痛に効くと言われている)をいただく。冬は、真綿そのものの暖かさを利用した電気を使わないコタツでぬくぬくできる。お客さんに見てもらう蚕自体が育つのが早いため、夏と冬で不定期に1週間だけという短い営業期間のレアさが価値を高め、カフェの営業日はお客さんでいっぱいだ。
紬織士教育にも「ふるさと学習」にも、卒業後の道が拓けて
絹義務教育学校のそばにある資料館「桑・蚕・繭・真綿かけ・糸つむぎのさと」では、長年、真綿のPR活動が行われている。令和6年の初取材当時静かに販売されていた雪だるま人形やキーホルダーなどの真綿グッズは、その後かわいらしいデザインがSNSで話題になり、ネットショッピングで予約待ちが出るほどの人気に。今も、新しい商品や取り組みを生み出し続けている。
このようにさまざまな発展を遂げ、今では養蚕は30年前よりもグッと身近な存在となった。30代から40代の比較的若い養蚕農家も、少しずつ誕生している。坂入さんの教えた紬織士の中で独り立ちした方は、令和6年の取材当時は1人だけだったが、2040年代半ばには10人台に増えた。その紬織士たちは共同で絹地区に『織物工房 おやまのつむぎや』をオープンし、織物の注文も引き受けながら、後継者育成も本格的に進めている。
こうして、絹義務教育学校の生徒たちにとっても、「昔の絹地区の産業」というイメージしか持たれていなかった養蚕農家や紬織士は、自分の将来の職業選択の一つと考えられるようになってきた。
野澤さんが先生役を退いた後も、同校の「ふるさと学習」は続いている。はじめて蚕に触れる子どもたちは、最初は怖がっていても、蚕と触れ合う時間の中で、次第に慣れていくのだそうだ。「あれ?もう怖くない!」―――そうやって、絹地区には頼もしい伝統後継者が今も生まれ続けている。
白鴎大学地域メディア実践ゼミ(諏訪千咲、森谷佳保、長嶋優太、橋本慎之介)
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